| ●明治31年(1898年)12月2日 新潟県新発田村(現新発田市) |
| 蕗谷虹児は、父20歳と母15歳の駆け落ち先で長男として生まれました(本名一男)。新聞記者で酒飲みの父、病弱な母、二人の弟との貧しい暮らしの中で元気に育ち、読誌の夢二の絵を透写して遊んだりする子でした。小学校卒業の夏に母が28歳で病没し、弟たちは親類にあずけられ、本人は洋服屋の小僧になって一家は離散。後年の誌に「泣き虫小僧は泣くばかり・・・」の一篇があります。
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| ●大正2年(1913年) 15歳 |
| 印刷会社の小僧時代に新潟市長に画才を認められ、帰郷した日本画家尾竹竹坡の内弟子となり上京、日暮里の研究所に通い、一門の展覧会に習作2点が入選します。絵描きとして身を立て離散した一家を元に戻す、その一心で猛勉強に励んだのです。2年後に帰郷、映画館の絵看板を描いて、父の借金を返します。 |
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| ●大正6年(1917年) 19歳 |
| 人妻との恋が発覚、父がいた樺太に逃れて、「以後足掛け3年、酷寒の地を旅絵師として放浪した体験が、自分を詩も書く絵描きにした」とは本人の述懐です。 |
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| ●大正8年(1919年) 21歳 |
| 帰京して、画塾の先輩と夢二を訪ね、雑誌「少女画報」に紹介されて虹児の筆名でカット絵を描いてデビュー。翌年から新年号の表紙絵を任され、22歳で朝日新聞の連載小説の挿絵に抜擢されるや人気が沸騰、「令女界」や「少女倶楽部」には創刊号から描き、野口雨情の推薦で『銀の吹雪』を出版、続いて『睡蓮の夢』『悲しき微笑』『銀砂の汀』の虹児画譜3部作など詩画集9冊を出版します。 |
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| ●大正14年(1925年) 27歳 |
| 父の死をきっかけに、画学生に戻って本絵の勉強をすべく、フランスへ旅立ちます。足掛け5年、故国へパリ画信を送稿しながら、サロン・ドートンヌなどの難関公募展に連続9点の入選をはたし、一流画廊での個展も成功させます。 |
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| ●昭和8年(1933年) 35歳 |
| 帰国後、借金返済のため挿絵を描きまくって沈潜しますが、やがて「少女画報」などの表紙絵を再開、モダンな画風で一世を風靡し、昭和10年には詩画集『花嫁人形』を出版、12年には「令女界」に自画伝『乙女妻』を一年間連載します。 |
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| ●昭和21年(1946年) 48歳 |
| 大戦勃発前には少女雑誌の仕事を失い、世界名作童話の「シンドバッドの冒険」「アンデルセン童話」などを描きます。戦争画展に『天兵神助』を出品。戦後は復刊された雑誌に再び描き、次いで『人魚姫』などの絵本を多数手がけます。 |
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| ●昭和43年(1968年) 70歳 |
| 新宿小田急百貨店で「画業50年記念蕗谷虹児抒情画展」が開催され、以降、同画廊で個展5回を開くことになります。『蕗谷虹児抒情画大集』、三島由紀夫との豪華本『岬にての物語』、『蕗谷虹児画集・絵本ファンタジー』などを出版。 |
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| ●昭和54年(1979年)5月6日 |
| 晩年を過ごしたアトリエに近い中伊豆温泉病院に入院、三日目に急性心不全にて死去。家族に見守られ、大仏さんのようにいい顔だったといいます。享年80。 |
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『葡萄』
「少女の友」絵葉書
昭和初期 |
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『混血児とその父母』
サロン・ドートンヌ初入選作
1926年 |
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