翠濤侯ゆかりの
掛軸と茶杓
(以上2点/石州流 内田恭翠氏 所蔵)
 
新発田市では毎年、清水園や五十公野御茶屋などでお茶会が開催されています。石州流をはじめ表千家、裏千家、宗ヘん流、煎茶では東阿部流、買茶流などの流派があり、茶道は大変盛んです。また、歴代藩主が茶道に力を入れた新発田藩では、和菓子にも力を入れ、京都方面から新しい技術を取り入れ、質の良い物を作っていたといわれています。現在も、数多くの和菓子店がその技を競い合っています。
新発田には、伝統的に受け継がれている石州流茶道があります。石州流は、大和国小泉城主片桐石見守が流祖となったことにより、石州流という流派名となりました。この石州流の高弟の一人に怡渓宗悦(いけいそうえつ)がおりました。宗悦は石州流怡渓派をおこした茶人僧侶ですが、四代重雄(しげかつ)はこの宗悦に茶の湯の教えを受け、その後、五代重元(しげもと)に伝え、初めてこの流派を新発田に広めました。藩に茶道職が設けられたのは、七代直温(なおあつ)の頃からで、その職に就いた者が江戸詰の際に怡渓派の茶道を修業し、新発田に戻ると藩士はもちろん町民の人々に教えたことから、城下で茶道が普及しました。特に、十代直諒(なおあき)は茶の湯を好み、翠濤庵(すいとうあん)と号し、怡渓派茶道を奨励しました。
昔の菓子型 献上品を入れた外居(ほかい)
お菓子を入れて、歴代藩主に献上する時に
用いました。
(以上2点/和菓子司 菊谷 所蔵)
和菓子の発達は、茶道と深い関係があります。歴代藩主が茶道に力を入れた新発田藩では、和菓子にも力を入れ、京都方面から新しい技術を取り入れながら、質の良い物が作られるようになったといわれています。明治時代になると、この伝統は民間にも広がっていきます。近郷の地主や大きな商家の人々が、冠婚葬祭に欠かせないものとして取り入れたことで、和菓子は新しい発展をしていくようになります。また、新発田とその近郊は、江戸時代から越後の穀倉地帯として豊かな農産物に恵まれた所でした。藩の奨励もあり、質の良い米や豆類など、菓子作りに必要な材料については、他の地方にひけを取りませんでした。このような社会条件、自然条件が整い、新発田の和菓子の伝統は作り上げられてきたのです。
新発田の観光
清水園五十公野御茶屋
もどる